英語を早く使いものにするには、翻訳するな!

Feb 25, 2021/ 更新日:Mar 1, 2021

翻訳グセは矯正せよ!

第二言語として英語を学ぶ場合、どうしても自分の母国語だとどうなるのかということに意識が行きがちだ。 しかし、この意識、無意識が曲者である。

この「翻訳をしてはいけない」ということは肝に銘じておく必要がある。翻訳は、翻訳を頼まれたときのみに行えばよいのであって、それ以外は意識的に脳内でスキップする必要がある。

そもそも、英語という言語があり、日本語という別の言語が存在しているわけで、その両者に完全互換性など期待すべくもない。 翻訳(または通訳)というのは、あくまである言語で述べられたことを別の言語に近似値で置き換える作業、もしくは技術であり、決して一対一で結びつく言葉があるという前提そのものが大誤解である。

ズブの例を一つ上げてみる。

「信号が青に変わった。」という日本語を英語に隠せば、

“The lights changed to green.”

になる。 なぜ、青が“green”と訳されるのかという疑問はご法度である。

信号のライトの色は、たしかに緑だが日本語では慣用的に「青」と表現するのである。 これをもし、“The lights changed to blue.”とモロに訳してしまえば、その裏の意味には「なにか変なことが起きたのか、ライトに青いペンキでも塗られたのか?」などという憶測を呼び、決して「さぁ、進め!」というような、信号が変わったから先に行こうという意味には結びつかないのた。

もう少し深堀りしてみよう。 ネイティブは英語で世界を切り取るのである。もちろん、日本人(日本語を母語とする人)日本語で世界を切り取る。だから蝉の声や、蛙が池に飛び込む音は雑音にはならないし、趣のある音と捉える。しかし、英米人にとってはただの雑音としてしか扱われない。

先程の例では、英語で「色」を切り取ったとしたら、それは日本語では「青」で切り取られる部分の一部が“green”で切り取られるわけだ。 「緑」がなぜ「青」になってしまうのか、これが、ネイティブにとって日本語は難しいと言われる理由の一つにもなっている。

色の話に入ったところで、日本語的にはよく「青い目の少女」なんて表現を使う。小説には定番だし、映画の字幕でよく見るはずである。 その表現の裏には「青い宝石のような目をした美女」というニュアンスが含まれている。

ネイティブの美女に「あなたは素敵な青い目をしている」と言ったらどう受け取るか。もちろん、セクハラ的に受け取られる可能性も無きにしもあらずだが、こちらの「美しい目(顔)ですね」というニュアンスは伝わるのだろうか。

現在では日本人的な思考は、ある程度世界的に知られているとはいえ、英国・米国の現地に赴いてそのようなことを言っても、いい意味には受け取られない。 ネイティブ側からすれば、自分の目の色がどうのこうなんて考えたこともなく、目の色は行方不明者や犯罪に関わったなど、調書を作成するときに官憲に提供する情報だという認識が普通だ。

つまり、「宝石のような青い眼ですね」というような意味には取られない。

つまり、英訳、日本語訳ともに安直な感覚で行ってはいけないのだ。日本語的に染み付いた表現ほど、その訳は危険なものになる。翻訳というのは技術である。それなりに座学を含め、しっかり時間をかけて学習しないと身につかないものだ。

英語を使いこなせるようになりたいと考える人、そしてできる限り早く身に着けたいという方は、翻訳は後回しで良い。翻訳技術は実際のところ奥深く、沼である。初心者の段階でハマるべきところではないのだ。 インテリ層ほど、自分の知性を誇りたい人ほど、この沼にハマる傾向がある。

翻訳を捨てて、数の表現による誤解を防げ

日本語訳などを介在させないのが、英語を使えるようになる近道だという例をもう一つあげる。

「リップクリーム」などとに使われる“lip”は日本語訳的には「」になる。 この日本語を聞いた日本人は、ほぼ全員がローリング・ストーンズのシンボルのような、上下の唇を連想するはずである(舌を出しているかどうかはどうでもよい)。

ところが英語の“lip”と言えば上方もしくは下方の唇片方だけしか意味しない。決して、ローリング・ストーンズのシンボルには結びつかないのである。 では、“lip”を下唇などと日本語訳するのかという疑問がでるが、多くの場合、そういう日本語を持ってくると、修飾語が多くなってしまい、読みづらくなる。

技術文章ならやむをえなくても、キャッチコピーや新聞の見出しには使えない文になり、適切な意訳を考え出すしかないのだ。また、上の唇か、下の唇なのかは曖昧に片方の唇と言いたい場合の“lip”なので、日本語の唇とは単語としてはズレているのである。

では“lips”とやって日本語の「唇」に近づけようと、単純に理屈で考える人が出てくるが、答えはそう簡単ではない。日本語の「唇」は曖昧なボヤッとした概念である。「唇にふれる」という表現があったとしても、上下の唇に触れたのかどうかは区別せず、想像におまかせしている。 ところが英語で“lips”とやってしまったら、上下まとめて触れたことが明確に表現されてしまう。文学的には、適切な訳をねじりだす必要があるが、普段の生活でも単数・複数表現をいい加減にすると、誤解が生じることは免れないのだ。

英語を身につけるには、この単語間の対応概念、近似概念を追求する姿勢は諦めるほうが近道である。 仮に、プロ翻訳者を目指すにしても、まずは英語が使えない限りスタート地点に立てないわけだから、とりあえずは諦めていただきたい。

冒頭の信号の例文に話を戻して締めくくろう。

例文“The lights changed to green.”を「信号が青に変わった」と訳せるためには、英語の“green”で切り取られる言葉の概念範囲と、日本語の「青」や「緑」で切り取られるその範囲を、予め両方知識としてあることが前提なのだ。 翻訳というのは、両方の言語を別々に予め習得して初めてできる技術なのである。

英語を日本語に訳したり、日本語を英語に訳す事(英作文)が「英語の勉強のコア部分」だと考えていたり、思っている方はしばらくその考えを封印していただきたい。「日本語の信号の青は英語では“green”になるから、英訳するとしたらこの場合は・・・」という思考プロセスそのものは、無駄がありすぎて英語ができるようになのまで膨大な時間を食いつぶしてしまうのである。

英語を使うためにやることはごく単純、英語だけでなんとかしようとすることである。そうすれば、英語、例えば単語の意味する概念、切り取る事象の範囲が自然と日本語とは別枠で頭に染み入るようになる。

まとめ

まとめ いわゆる翻訳は、他の言語から近似値を抜き出してきたものに過ぎない。 特に単語単位では、意味も概念も大きくズレてしまうのが普通である。