英語の翻訳癖から脱するメリット

Feb 26, 2021/ 更新日:Mar 19, 2021

英語を実際に使いたいなら、まず翻訳グセかせ抜け出してみることをおすすめする。 翻訳せずに、英語で考える癖をつけてしまうと、いざという時に英語が口をついて出てくる。

翻訳はヤメロ!— 表現編

今までは単語レベルでの日本語との差異を見てきた。もちろん英語と日本語は構造が異なるため、単語でそこまで違いがあるのなら、文として見た場合、よりいっそう翻訳が学習に悪影響を与えることが理解できる。

誤解しないでいただきたいが、「翻訳はするな」と主張しているのは、英語を使いこなすための癖をつける、「イチイチ翻訳しない癖をつける」という意味である。 例えば、通訳・翻訳者を目指し英語力もソコソコあるのに、翻訳のトレーニングはしないというのは、本末転倒である。

当ページの「翻訳はするな」という主張は、受験英語のような、英文を和訳するようなトレーニングが不要というような意味ではない。 「英会話」教材の日本語訳を参照することも、頭の中で「この英語、日本語ではどうなる」という脳内翻訳機能が働くので、やってはならないことである。

日本で売られている英語や英会話の参考書には、見開き左ページに英文、右ページに日本語訳、という構成に習うものが多い。訳が右ページではなく、ページの下、章末に載せているものもあるが、基本構成は変わらない。難しい(と思われる)単語がページ下や英文の横に書き出されていて、その単語の訳を載せている親切系の書籍も多い。リスニング教材でも、英文の後に続いて日本語訳が流れるものもある。

このことは初心者向けの教材に限った話ではない。ほぼすべての日本の英語教材には日本語訳が付属してくる。日本語訳を載せないと、そもそも教材や書籍が売れないのである。購入する側からしてみても、日本語訳なしとは手を抜きすぎ、コストを抑えすぎと受け取りがちである。英文しか載せていない、英語でしか話していない教材は確かに売れないのである。

英語のできない親が、子供に英語を勉強させる場面を想像してみてほしい。 大半の親は、子供には日本語訳のある書籍を買い与え、子供の質問には日本語訳を参照して答えるはずだ。

だか、本サイトはズバリ言うことにする。 英語を使えるようになりたい人にとって、日本語訳は不要である。あるに越したことはないとも言えるが、脳を英語脳にし、日本語回路を切り離すことが目的である以上、日本語訳は見ないほうが良い

知的レベルが高い人は、日本語訳を見てしまうと、微妙に言葉の言い回しが気になったり、その結果、もとの英語に戻り自分で和訳をひねり出してみる、そして自分ならこう訳すというようなループに陥ってしまう。

受験英語の講師などは、基本的には日本語で教授するのであるから、この手のトレーニングは必須に違いない。しかし、ネイティブと意思疎通し、英語を使いこなすという目的からは、やはりそれてしまう、あるいは大きく遠回りしてしまうことになる。

日本人同士で英語の表現がどうのこうの語り合うような場面を想定するのではなく、日本人が自分ひとりで、まわりが全員(とりあえず英語ができる)外国人という場面を想定してほしい。

初学者の場合は、日本語能力もソコソコという程度であれば、わからない英語をわかるようになろうと、まだわかる日本語に頼るようになる。 その結果、英語がわからないから、日本語訳を読んでみる、その訳された日本語がわけわからないから、日本語を含む言語能力が低いのではと疑い始めるという、悪循環に至る。

外国語の能力は、母国語の能力の範囲を超えないという理論があるが、それを鵜呑みにしている限り、英語でそのまま読んだほうがわかりやすいといった経験はできはしない。海外の難解とされる著作物などは、そのまま原書で読めば、普通の頭で普通に理解できるものは少なくない。哲学書が代表的だが、日本語に無理やり訳し、しかも正確性を求めて、なおさら難解な日本語訳を当てた和訳本が普通にあるのである。 そのため、日本語訳の日本語は素晴らしくても、かえって難解で読みにくいこともある。

このことは、脳内で日本語と英語を直流回路にしてしまうから、そういうことに陥るのであって、はじめから並列回路を組めばよいのである。言葉でいうほど簡単でないことは確かだが、イメージとしては捉えていただけると信じる。

後々にも、何度も述べることになるが、使うための英語学習において「日本語訳」を常時参照するのは良策ではない。無論、受験英語で和文英訳と英文和訳が必須の受験生は、このことから逃れられないし、逃れるべきではないが、英語を使えるようになるという目的がメインなら、日本語訳は無視する癖をつけてしまおう。 特に実践で英語を使いたいサラリーマンなどは、この癖をつければ学習時間の大幅短縮ができる。

ちょっとメモ 「日本語訳」が役に立つことは実は普通にある。ただし、英語を使いこなせるなどというような目的ではなく、普通に時間を惜しんで、英語の内容を理解したい場合である。レストランのメニューなど、何の食材を使って焼いたものなのか蒸したものなのかがわかる日本語訳があれば、それで助かったという経験がある人は多いだろう。

では、「日本語の解説」はどうなのかということについても言及することにする。 結論から言えば、見ないほうが良い。教材の英語の部分が主役で、その主役を補佐するのが日本語の解説だとしたら、主役を本当の意味で補佐する内容であれば、読む価値は十分にある。

しかし、現実の多くの参考書はそうはなっていない。解説と称して、実はただの日本語訳に過ぎなかったり、試験に出るポイントを日本語で区分けしているだけ、単語と熟語を日本語訳しただけのものが多すぎるからである。 日本語訳を欲することそのものが、日本語を途中に介することを求めていることにほかならないのだ。

日本語を途中に介して英語を理解しようとする弊害を、具体例をもって説明する。 “Sure.”という表現の定訳は「もちろん」である。 訳して日本語で理解してしまうと、何が面倒なのか、以下の例文を見ていただきたい。

Would you like some coffee?

Sure.

これらは、

コーヒーはいかがですか?

はい、もちろん

と日本語訳をつけられることが多い典型的な例文である。

しかし、脳内で会話を解釈するとき、この「もちろん」という日本語訳してしまったことが問題になるのだ。

手持ちの適当な辞書 LAAD には“sure”については、“used to say yes to someone”と説明がつけられている。 つまり、日本語の「もちろん」というほどの積極性が込められた言葉ではないのである。

もし“Sure.”を「ぜひ、飲みたいです!」というような意味にまで広げて意味を掴んでしまうと、大間違いということになる。

上の日本語訳は、文脈次第で妙訳とされ、受験英語などでは腕を振るうところでもある。採点官も、「この受験生デキルな!」と思うかもしれないのだが、英語を学ぶ側からすれば、このうまい日本語訳は使いこなしの邪魔になるだけである。

上の例文の“Sure.”には、「はい、頂きます」くらい意味合いしかない。 日本の英文学者のレベルは総じて高く、多くの日本語の訳文には、妙訳というかうまい日本語が当てられている。スブのこなれていない日本語訳をつけると、学者として軽く見られるのが普通だ。ベストセラーのジーニアス英和辞典にも、『[間投詞的に用いて;返答として]いいとも、もちろん、その通り』と訳が当てられている。 訳はうまいが、学習者が言葉のニュアンスを掴むためには、日本語の緻密さがそれを邪魔してしまうのである。

日本語に訳して、その日本語を理解するということと、英文そのものを理解するという違いを再度認識してほしい。

「もちろん」と訳すのが好まれる英語は、“of course”と“certainly”もある。 日本語で認識してしまうと、“sure”と同じような意味と解釈されがちだが、実際は違うものである。

今の文例で“Certainly”と答えれば、「英国風の表現」になる。 北米でこの会話があったとしたら、聴く方は、イギリス育ちの「上流階級」、「お上品さ」を感じ取ることになる(厳密には英国風の発音ができていないと話にはならないが)。 特に、ヤンキーのFワードを連発するような悪ぶった人物であろうと、言葉から、その発話者のバックグラウンドを連想させるのだ。

同じ文例で“Of course”と答えれば、これこそ日本語の「もちろん」に近いニュアンスになる。

その答えから、普段からコーヒーを頻繁に飲んでいるようなニュアンスを感じ取れればよい。逆に“Sure.”から、同様のニュアンスを感じてしまったとしたら、日本語を介在させて英語を理解している可能性が高い。

取り上げた例文で“sure”の適当な日本語訳は「はい、頂きます。」くらいがピッタリ合うと述べたが、このような「近似値」をうまく見つけてきて訳し、その日本語訳で理解していけば問題ないと考える人はいるだろうか。

しかし、例文の訳も「近似値」として日本語としては一番近そうという程度のものに過ぎず、所詮は無理やり日本語に変換したものに過ぎないことを意識してほしい。翻訳の「はい、頂きます」という日本語で考えてしまうと、「うん」「あ、どうも」などと答えても意味が変わらないと理解しがちだが、どちらも英語の“Sure!”ニュアンスが削ぎ落ちてしまっている。

ニュアンスを掴み取るには、根本的にSureが何を意味していて、どういった状況で使われているかという事を知る必要がある。そうすることで英語の理解が進むのである。その状況を、いちいち日本語に置き換えるような作業をしてはならない。

「日本語訳」はその文脈で最も近いものを引っ張ってきているだけである。 デジタル変換されるわけではなく、精度がブレるアナログコピーのようなものでしかない。

ちょっとメモ

例文のような会話で“Would you like some coffee?”と聞かれたとき、単に“Yes.”とのみ答えるのは大変失礼になることが多い。あまりにぶっきらぼうで、コーヒーを出してくれる人を召使いのように扱っている感じが出でしまうのだ。

そのため、“Yes”を使うなら“Yes, please.”と答え、誤解と悪印象を避けよう。逆に“Please.”とだけ答えるのは丁寧だと受け取られる。

まとめ 言語が違うと、一言の世界の切り取られ方が違ってくる

最後に日本語を介在させてしまうと、今ひとつニュアンスがつかめず誤解する例を挙げる。

I’m proud of you

よく見かけてしまう例として“I’m proud of you”の訳文が、「あなたの事誇りに思うわ」と日本語を当てているものがある。事実、ジーニアス英和辞典の“proud”の項目には、

a <人が>誇りをもっている、自尊心のある、得意な;{叙述}{人・物・事を}自慢する、光栄に思う(以下略)

b {しばしば複合語で}<人が>・・・を誇りにしている、・・・に満足している

と書かれてはいる。

しかし、LAAD をちょっと覗いてみると、

feeling pleased with your achievements, family, country etc. because you think they are very good.

と説明されている。 つまり、“I’m proud of you.”とネイティブが言う時は「誇りに思う」というような大げさな意味はほぼない。

「お前スッゲー」「やるじゃない」「がんばったね!」くらいの意味で使うのが普通だということだ。だから、受験英単語帳などでおそらく覚えただろう「誇りに思う」というような大げさな日本語は、頭から排除するのが賢明である。

2017年のパティ・ジェンキンス監督の映画『ワンダーウーマン』の中にも、主人公のダイアナがアイスクリームを初めて食べてその美味しさあまりに、店主に“You should be very proud.”という場面があるが、「こんなうまいもの作れるって、凄いね!」という感じで聞くのが正解だ。褒めてはいるが、涙を流して崇拝するようなレベルのものではない。

日本語を介在させるだけで、大した意味ではないのに大げさに場面場面で適切に訳語を選ぶなどということをやってしまいかねない。学習者としては、“be proud of”はそのまま上のような場面を思い描いて、そういう表現だと納得してしまおう。

その場面場面において、プロの翻訳者は適訳を当てはめてくれるが、学習者はその芸当に惑わされる必要はない。翻訳は後回しだ。日本語訳が「近似値」を拾ってきてくれたとしても、言語が違えば、その意味の広がり、発想などは違ってくるのだ。 英語ができるようになろうと、日本語訳を参照してしまうのは、英語習得という目標のためには遠回りになってしまうのである。

まとめ 英和辞典の上手い訳が、そのまま英語のニュアンスを表しているとは限らない